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せすんの陶歴から作家の言葉を出してみると、作家さんが単なるうつわを作る作家さんではないことが伝わって来るんじゃないかと思う。
それは、普段の使いやすい「単なるうつわ」を作ることだけではなく、アートという美意識の中で、うつわが、どれだけ表現が出来るのかを模索しているように思えて仕方がない。
作家が、どう考えていてそれがどうアートとつながっていくのかを言葉から感じて欲しい。
陶芸家・板橋廣美さん「作家質問箱」より
オブジェも作っていらっしゃいますが、オブジェとうつわでは制作する時の作品の考え方に違いはありますか。
器は壊れた物の内側と考えたことがありました。大きな磁器の球体をつくり壊しました。球体は物ですが、穴を空けると用が生まれ、花器になります。
鉢になり、大皿ができます。小さな破片までが小皿として使えます。今まで器を作っていたのではなく、壊していたのだと思いました。オブジェも器も基本的な考えは同じ気がします。
陶芸家・山田晶さん「作家の声」より
器という便利な言葉があるが、これが食器ならもうすでに役目は決まっていて料理の脇役に徹する以外ない。ここではそれだけで存在し得ないような雰囲気さえ漂う。
これが器というということになるとそれ自身自己完結しても良いような響きが有る。
私が、土をつかいモノを作るときこの「うつわ」と言う事を意識して作っているところが大きいように思う。
空のうつわ、モノをのせないうつわ、概念としてのうつわ、まずここから出発して次に 器としての役割(それは何かを盛ったり注いだり)に行けば良いと考えながら作っています。
陶芸家・マルタCニシムラさん「作家の声」より
光と影
あらゆる物質/生物は因果による普遍的存在から成り立つ必然的バランスの結果である。
「光」は創造を意味し、その反対の「影」は死、再創造、生命の育成をも意味する。
どちらもお互い片方なしでは存在しえない。
私が作品の素材、形、展示方法によって表現しているのは、そういうことである。
陶芸のプロセスは、あらゆる生物を創造している自然の要素と深く関わっていることを、直感的に当然のこととして感じる。
素材との物質的関わりを通して、表現する形、豊かな抽象力を共感できることに満足している。
同時に、プロのセラミックアーティストとして、毎日すべての感覚において、自分が自然の法則の力の下にいる無力な人間だと思い知らされながら、素材に対する技術の問題と直面している。
(僕の印象に特に残った3人を掲載しました。)
必ずしも、うつわをうつわだけのモノとして考えていないわけじゃない。又、Cesnで取り上げてきた作家さんが、全員、同じように、うつわに表現を与えている人だけでもない。(うつわを作ることが、そもそも自己表現じゃん、ということを抜きにして)うつわをうつわとして、自分に位置づけている作家さんたちも多い。
実は、Cesnの作家さんは、うつわだけを作っている作家さんばかりではない。造形作家(オブジェなどを作る人)であったりもするから、思考もアーティスティックなんだと思う。
本当は僕なんかが説明したら、業界の人に怒られそうだけど、プロの人に説明してもらうと、難しすぎて理解するのが大変。。それに僕なんかには本当には理解できないのかもしれないし。。
でも、その思考が、うつわを作る時にうつわにも出てくるから、うつわが面白かったり、また、美しい線を作り上げたりして、アートな側面が表れてくるんだと思う。
「作家もののうつわ初心者」の方を中心に、できるだけ興味をもって頂きながら、理解と知識を深めていく感じ(笑)で書いています。クレームなどはご遠慮願いますが、誉めて下さるメールはお待ちしています。(笑)よろしかったらご感想をお寄せ下されば幸いです。
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