「矛盾」

せすんの読みもの
   

ちょっと前、一万円の湯呑みを買った。「高っ」と思ったけど買った。
その後も「あれ、高かったなぁ」と、思い続ける。
ある時、言われた。
「結局、価値を見出せないからじゃない?」
確かにそうかもしれない。漠然と一万円の湯呑みは高いと思ってしまう。気に入って買ったはずの湯呑みでさえ、後から考える時は「一万円」というお金だけを考えてしまう。

その同じ作家の他の湯呑みは5000円と値が付いていた。
考えてみれば、それだけ、その湯呑みには作家の「思い入れ」や「意気込み」があったはずなのに。考えなければ見出せない価値なら僕には、ちょっと早いのかもしれない。デザインも良かったのに、今は使わずにオブジェのように飾ってある。(そうやって、観賞用にする人もいるんだけど、僕としてはやっぱり使いたい)

商売柄、「作家もののうつわ」は使うようにしている。
使ってこそ華、のうつわは使うことで命が吹き込まれる気がする。

家族全員が同じうつわ、仲の良い友達同士で使ううつわが「おそろい」だと、何となく一体感が生まれるからなのか、それぞれに違ううつわがテーブルに並んでいると居心地の悪さを感じるからなのか、画一的な、おそろい食器を私達は好んで使う様な気がする。

お店に行ったりすると、たまに、一人一人が違ううつわで出てきたりする。「わー、なんかいいじゃん」って思う半面、同じ量なんだろうなぁと疑ったりもする。(笑)(別に盛りつけるお皿で量を決めてるわけじゃないから同じなんだけど。。)
「人と同じじゃないとなんか嫌」という気持ちと、
「人と同じじゃなんか嫌」という気持ちがうつわにも色濃く残ってる気がする。

作家さんの家に行くと、たいてい全員バラバラのうつわでお茶が出てきたりする。それが「イイ感じ」だったりする。

今、「作家もののうつわ」は、そこにある価値を見出せる人だけが持つ。だって、一般的に言って高いから興味のない人は買わない。でも、本当に高いのかなぁ。。何の基準かなぁ。。うつわって我家をみても5年、10年と使ってる。
一個当たりの単価は服よりもどんなものよりも安いと思う。それでも湯呑み3000円とか聞くと、「高け〜」と、思う。(買えないじゃんって思ったりする)

贅沢品とは思わないけど、仮に贅沢品だと仮定する。
ちょっと贅沢して買ったものは決して捨てないよね。たとえ引っ越しても持っていく。どこの家庭にもしまうスーペースは必ずある。
一年間押し入れから出さなかったものは、その後の10年間も出さないと言われる。その空間を利用すれば服の様に夏物・冬物と別けることだってできる。
一年間を通して使えばすぐに見慣れる「うつわ」も、半年クールで使えば、なかなか見飽きなくなると思う。

自分と同じように年をとり、同じ速度で歩んでいくうつわと、もう少し上手に付き合っていければ、いいものを持つことで生活もデザインされた空間になり、もう少し食生活を楽しめる気がする。。
ご飯を食べる時間が楽しいということは、とても大切な事だと実感できるようになった。
よくわからない「価値を見出せる人だけがもつ」という見えない壁を、なくしてみんなが何の抵抗を感じないで「作家もののうつわ」を使えればいいなぁと思う。

最初は服やバックのようにファッションだと思ってみれば入りやすいかもしれない。
友達同士でお互いのプレゼントに「あげっこする」っていうのもありかもしれない。
僕も今は抵抗を感じるあの湯呑み、この連載が終わる時までには使っていたい。

せすんの読みもの

「作家もののうつわ初心者」の方を中心に、できるだけ興味をもって頂きながら、理解と知識を深めていく感じ(笑)で書いています。クレームなどはご遠慮願いますが、誉めて下さるメールはお待ちしています。(笑)よろしかったらご感想をお寄せ下されば幸いです。

作家もののうつわ現代工芸舎